十島村立口之島小・中学校   トップページに戻る  口之島の紹介に戻る

口之島の概要

面 積:13.33㎢
周 囲:20.38㎞
東 経:129度55分
北 緯:29度59分30秒
最高点:628.3m
人 口:100名66世帯(令和4年2月現在)

1 地図上の位置
 鹿児島郡十島村口之島は,鹿児島と奄美大島との間に点在する有人7島,無人5島,計12島からなるトカラ列島の一番北に位置する島である。鹿児島市から南へ204㎞,北緯30度線が北端を横切っている。

2 自 然
 島の周囲は20.38㎞で,南側は絶壁,北側は海岸になっているところが多い。海岸部は,珊瑚礁が島づたいに平行に広がっている。また,島の北部分はリュウキュウ竹におおわれ,南半分はタブやシイ,アコウ,ガジュマルなどの密林地帯となっている。
本島は,霧島火山帯に属し,前岳(628m)を中心に,燃岳や横岳などの火山が回りを取り囲んでいる。そのため,口之島には,3つほどの温泉が点在する。
 気候は温暖多雨,平均気温は20度で,鹿児島市より4度くらい暖かい。季節風の影響を強く受けるとともに,熱帯性低気圧の影響を受けやすい。
 植物系は南帯系に属している。植物群は,主として広葉樹と常緑樹で,リュウキュウ竹を優勢種にタブやシイ,ヒサカキ,アコウ,ガジュマル,ハマイヌビア(北限),アダン(北限)など,亜熱帯性の植物が多く見られる。タブやイヌマキには,ナゴランが自生している。その昔,平家の落人が袂に入れて持ってきたというタモトユリは,県の天然記念物に指定されている。
 動物は,島の形成が比較的に新しいために,その種類は極めて少ない。よく見られるのは,野生牛(黒毛和牛種)とトカラヤギである。

3 歴 史
(1)縄文時代…口之島でも,石斧や条痕のある土器が出土している。当時の人々は,狩猟や採集を中心に生活をしていたことが考えられる。
(2)古墳時代~平安時代…ヤマゴロウ遺跡やナカキヤマー遺跡より,須恵器が発見される。当時は口之島北部の棚田を利用し,稲作を行っていたことが考えられる。沖縄と九州との間に挟まれ,トカラ列島は「海上の道」として文化等の伝達の一環を担っていた。まだ,薩摩には属していない。
(3)鎌倉時代…この時代,河邊(かわなべ)郡に属し,川邊(かわなべ)氏や千竈(せんかま)氏の支配を受ける。
(4)南北朝時代~室町時代…島津氏の一族が,種子・屋久,奄美,トカラを統括する。依然として,川邊郡に属す。和冦の出没に対して,砦や山城を設けている。壇ノ浦の戦いの後,平氏の一族が小舟4~5隻に乗り,口之島に逃げのびてきたという伝説もある。
(5)江戸時代…薩摩藩に属し,島津氏の支配を受ける。主として漁業に従事し,自給自足のために農業もほそぼそと行っていたようである。
(6)明治時代~ 鹿児島県に属するが,川辺郡→大島郡→鹿児島郡(昭和48年)と,所属が変遷する。敗戦を受け,戦後,アメリカ軍の統治下に移る。昭和27年2月に日本国に復帰する。十島への小学校令の発布は遅く,1930年(昭和5年)であった。校舎は,寺小屋分教場のままで,場所は現在の口之島郵便局付近にあったという。当時,教科書は,寺小屋時代より国定教科書を,学校の世話で買い求めて使用していたらしい。1931年に,現在地へ学校を移転した。1941年(昭和16年),口之島国民学校と改称し,その後,1947年(昭和22年)の教育基本法の施行のもと,口之島小学校と改称し現在に至る。中学校については,青年訓練所,青年学校,口之島実業高等学校を経て,1948年(昭和23年)に発足している。

4 産 業
 口之島の世帯数は79世帯で,人口は133人(平成29年1月末現在)である。その大部分は 農業・畜産を主としながら,土木工事に従事している。その他,漁業,電力,建設,郵便,公務等 の業務に携わっている。また,牛の放牧が盛んで牧場に通じる道路や牧舎がよく整備されている。

5 教育環境
 教育への関心は高く,授業参観やPTA会合等への出席率は,100%である。また,地域の方々の学校教育に対する関心度も高く,協力的な姿勢が強く見られる。そのため,運動会や文化祭への地域の方々の参加も多く,学校・地域合同の盛大な運動会が実施できつつある。また,島には昔からの伝統をもつ風俗や習慣,貴重な芸能等が伝承されており,子どもたちの見学や参加などを通して郷土愛を育む教育活動を行っている。